みなさん、こんにちは。
ウッドピタ事業本部の森です。
私は東京でウッドピタの技術営業を担当しております。
いつも私はブログで東京の名建築物を紹介していますが、
今回は3.10と3.11と3.12と題して書かせて頂きます。
3.11は東日本大震災ですが3.10と3.12って?と思われるかもしれません。
まず3.12ですが東日本大震災の翌日に長野県で震度6強の大きな地震がありました。
ご記憶でしたか?
そして3.10は東京大空襲があった日です。
今から70年前の昭和20年3月10日夜、東京は約300機のB29によって空襲を受け
焦土と化し一夜にして10万人の市民が亡くなりました。
空襲のもとではどんな悲惨なことがおきていたのでしょう。
私の父も名古屋で空襲に遭い親と離れてしまい遺体置場に親の遺体を探しに
行ったところ、同じ遺体置場で父の遺体を探していた両親と無事出会った話や、
勤労奉仕で父と交代した仲間が交代直後に米軍機の機銃掃射に遭い
亡くなった経験をしています。
東京では3.11の前日、3.10の慰霊祭が行われました。
東京台東区横網には関東大震災と東京都空襲で亡くなった身元のわからない方々の
遺骨が納められた東京都慰霊堂があり、
当日は安倍総理も臨席して慰霊祭が行われ、他の各地域でも慰霊祭が行われました。
慰霊堂の敷地は横網公園、かっての陸軍被服廠跡地で
大正12年9月1日関東大震災のおり多くの被災者が家財をもって避難した場所です。
安全と思われたその敷地は周辺の大規模な火災から発生した火災旋風に襲われ、
一瞬にして38,000人が焼死した場所で慰霊堂の隣には
関東大震災復興記念館が建っています。
(慰霊堂は昭和5年伊藤忠太の設計により建てられ、
復興記念館は昭和6年に建てられ現在に至っています。
両国の国技館と江戸東京博物館のほど近くにこんな鎮魂の名建築があります。)
その翌日天皇陛下御臨席のもと3.11の慰霊祭が国立劇場でおこなわれました。
このように東京では3.10と3.11の慰霊祭が続いて行われます。
3.11私は立川市にいましたが午後2時46分黙祷の合図にサイレンが鳴り響いていました。
明治24年濃尾地震、大正12の関東大震災、昭和20年東京大空襲、
同じく昭和20年前後戦中から戦後にかけ4年連続で起きた4大地震、
昭和53年宮城沖地震その他の各地での大きな地震は挙げれば枚挙にいとまがありません。
そして平成7年の阪神・淡路大震災、
平成23年の東日本大震災、翌日の3月12日の長野地震。
いかに短い期間にいかに多くの不幸に襲われているかあらためて思い知らされます。
東日本大震災、現時点での死者21,688人 行方不明2,584人 避難者229,000人。
いまだにあちらこちらで遺骨が見つかるそうです。
避難されている方々の数だけでもいまだ復興がなされていないことが明らかですし、
会社の寮の近くの公団住宅にも今も800人の方が避難されていることからも
テレビの中の他人事ではないことを思い知らされます。
また原発の問題で今までおきた災害、被害のなかで一番復興に時間がかかる
災害となってしまいました。
日本の原発は幾重にも安全対策が施されて絶対安全、事故が起きないようになっている、
クリーンでコストも安いと学校で教えられてきましたが全部嘘っぱちだったことが
明らかになりました。
東日本大震災の教訓からドイツが自然エネルギー、再生可能エネルギーに
舵を切ったのに対し、日本は原発稼動といっています。
ここからは阪神・淡路大震災について少しお話をさせて頂きます。
私はお客様のビルが神戸にあったこともあり震災直後現地に入りました。
市内に近づくにつれ建物の被害が目立ちはじめ「お気の毒に」と思いながら
市の中心に向かいましたが三宮に達したころにはあまりの惨状に「これ現実か?」と
気が変になり、お気の毒にといった気持ちはどこかにとんでしまい、
ただただボーッと周りをみていた覚えがあります。
「2階で寝ていたらいきなり揺れ出してまるで虫かごに入れられて
巨人に振り回されているようだった、おさまったので避難しようとしたら
階段が1メートル先にあった。」といった住民の方の話や、
柱と敷居と間に座布団やコードがはさまっていた様子が思い出されます
(これは揺すられることにより引き抜きの力がかかり柱が浮いて抜けかかったものの
地震がおさまると同時にもとに戻り取れなくなったもの)。
そのほかいろいろなことを目にしましたがここではあまり悲惨な光景を
述べることは差し控えます。
またエリア的に驚いたことがありました。
神戸市は市の真ん中をJRと阪急が東西に並走して走っています。
北側は六甲山側で線路から六甲に向けての上り勾配、南垂れの傾斜地の町並み、
上に神戸大学がありその上は六甲山です。
こちら側では大きな被害がありませんでした。
誤解をおそれず申し上げますと、壊れてもおかしくないと思われる木造の建物が
外壁のクラック程度の被害で立っていました。
対して南側は港、海側でほぼ平坦な市街地で市の中心部もこちら側にあります。
こちらはみなさんが報道でご覧になったような惨状です。
このことはあまり知られていません。(報道の薄っぺらさを感じます)。
いつきてもおかしくない地震。
人命を奪うのは建物の倒壊が大きな要因の一つであることを目の当たりにしました。
阪神淡路大震災1.17のつどい
(神戸市中央区/神戸市 阪神・淡路大震災「1.17の記録」より)
そして私は今、縁あって耐震補強の仕事をしています。
セミナーなどで「耐震補強の目的は?」と質問をさせて頂くとほとんどの方は
死なないことと、怪我しないことと考えていらっしゃるようですが、
それだけではありません。
死なないことと怪我しないことと並んで大切なことは、建物を大破させないことです。
大破とは木造住宅でいえば傾いた状態になることです。
倒れていないので使えそうですが大きな地震が起きると
応急危険度判定員が回ってきます。
そして大破していた場合は赤紙を貼られ立ち入り禁止になり結果、
避難所にいくことになります。
避難所は私も見ましたが大変な場所です。
また中破小破では直すことができますが大破してしまった木造住宅は
直すことができず建て直しとなります。
建物を強くすることにより大破しないようにして避難所行きと建て直しを
回避し、地震後の生活を自宅でおくることも耐震補強の大きな目的なのです。
耐震補強をお考えでしたらお気軽にご相談ください。
全力でご相談にのらせていただきます。
それではまた。
次回からはふたたび東京の名建築をご紹介してまいります。
ウッドピタ事業本部 森